2012年2月19日日曜日

親ばなれ子ばなれ


私が吉岡たすくさんの本、“親ばなれ子ばなれ”に出会ったのは、日本で保育園勤務していた頃ですから既に20年以上前のことです。そんな古い考え方、と思いますか? そろばんを習った時代から、電卓を使う、PCを使うと学校教育は変わったかもしれません。でも私は、時代が変わっても人間が人間として育つ大切な始めの一歩は変わらないと思います。自動車が電気で走るようになっても、人手を使わなくてもコンピューターでいろんなことができるようになっても、それら利器を使えるようになる学習能力の基礎となる部分は幼児期に育まれ、その成長過程は変わりません。
そういうわけで、私は吉岡先生の書かれていることを今でも基本にしています。

私がこの本を買ったころは、“子ばなれ”なんてあまり聞きませんでしたが、Googleのサーチで沢山見つかって驚きました。

吉岡さんは“親が世話をしすぎていると、幼稚園に行って困る子どもが多いようですよ。”と切り出して、それを“親ばなれ”できない子どもよりも“子ばなれ”できない親という視点で語っています。
待てない、待ってあげられない親の姿を吉岡さんは指摘しています。
子どもがやるより親がやったほうが早いから都合が良いことも理由でしょう。子どもだって、自分でやればいろいろ口やかましく言われるものですから、親にまかせてやってもらえば楽でもあるし、責任を持たなくても良いし、、、ということになるのです。

前回書いたように、的を得た時期があるのですから、1才の子どもに自分で靴下を履きなさいと放っておくような年齢にあっていない要求はできません。でも3才の子どもにとっては12回コツを教えてあげ励ましてあげれば靴下が履けるようになるのはそう難しくありません。出来るようになったことで自信にもつながります。このステップを与えずにいつも親がやってしまうと子どもは学ばないまま4才、5才と育っていきます。5才の子どもが自分で靴下がはけないと聞いたら大人は何て言いますか?“5才にもなって靴下がはけないの???”子どもの責任でしょうか?
こちらの友達との会話や映画の中で、母親が成人した子どもを“My Baby”と表現するのをよく聞きます。母親の目から見たら子どもはいつまでたっても子ども。赤ちゃんの時ことを忘れることはないでしょう。でも“溺愛”ではなく、“敬愛”つまり、成長過程にある子どもを尊重して待てる愛、突き放せる愛、出来ると信じてあげられる愛が親に求められていることではないかなと思います。

©Makiko Nakazawa 2012

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